ペットロス(グリーフ・死別の悲しみ)について
ペットロスと共にある方々へ
いまこれを読んでくださっている皆様の中には、愛する小さなご家族を失しなわれて、
深く悲しい闇の中におられる方がいらっしゃるかもしれません。
私事になるのですが、すこしお話させてください。
私はこの18年の間に、大切ないのちを立て続けに見送る経験を致しました。
人間も動物も、です。
私は長らくミュージカルの俳優やプロデューサーとして東京で活動しておりましたが、
自分の半身として御縁をいただいた最愛の伴侶を立て続けに病で二人亡くし、
傷心のまま東日本大震災を経験いたしました。
亡くした愛する人は二人とも病での急変で亡くなりました。
本当に予測のつかないことでした。突然に世界が変わってしまったのです。
未来も過去も一瞬で亡くなったように思われ、廻りは何も変わらないのに、
私だけが変わってしまった悲しみに押しつぶされました。
私の場合、最初の時は葬儀を仕切っていたこともあり、全く泣けなかったのです。
ただ、その後は何をしても何を見ても思い出されて仕方ありませんでした。
余りの辛さに、残された愛犬をだいて一人北海道に渡りました。
二度目の時は逆に泣けて泣けて仕方ありませんでした。
その後、一人になって愛犬たちと経験した大震災。
地震直後の被災地を映していたテレビでは、オンタイムで津波が押し寄せる姿を流していました。
誰しも、あんな大きな津波が起きるなんて想像すらしていなかったのです。
目の前でなすすべもなく人々や町が流され、死んでいく姿を目にし、不安の頂点にいました。
そばには守ってくれる人もなく、たった一人、毎日毎日大きく揺れる大地の上に居たら、
寝間着に着替えることもできず、夜も布団に寝られず、靴を履いたまま、荷物を常にそばに置いて、
犬たちを抱えて過ごす日々が続き、気が付けば仕事も何もできなくなっていました。
それらを機に愛した人の残した愛犬を2匹抱えて郷里に戻るも、
それらの不安や生活習慣は影をひそめることなく、
亡き人々の遺影すら見ることもできず過ごす中、
今度は最愛の両親が続けてなくなりました。
その日々はあまりにも悲しすぎて、精神的にもまいってしまい
10年近く人にも直接会うことができませんでした。
そんな中で終末ケアやグリーフ(死別の悲しみ)や
ペットロスについて、考え、学ぶようになりました。
自分自身がまさにその渦中にいたからだと思います。
更に、この立て続けに続いた別れの日々の中、
17年間そばにいてくれた愛犬が亡くなった時は、本当に辛かったです。
でも、その別れを経験したこと、そして、善きお見送りができたことで、
あれだけ死に対して暗闇にいた私の中に、ちいさな希望の光が生まれたのです。
善きお別れをすることは、亡き子のとの未来と、
永遠の絆の希望となるということを実感した瞬間でした。
また自分が守り続けてきた小さな子が、ひとり立派に旅立っていくのを見て、
未知に対する不安や死に対する恐れが驚くほどなくなったのです。
愛する子は姿は見えなくなりましたが、勇気と希望となって心に住むようになりました。
それでも悲しさは募り、半年ほどは服を着せた骨壺をバックの中に入れて、
どこに行くにも持ち歩かねば、外にも出られませんでした。
何を見ても、何をしても思いだし、涙は滝のように流れ、
周りの人の励ましの言葉は耳に入りませんでした。
私の生活は大きく変化したのに、周りは何にも変わらないことへの理不尽さが
ふつふつと募り、すべてが恨めしく思えたりしました。
大切な人を亡くす度に同じような経験を繰り返しました。
死別の悲しみは何度経験しても慣れるものではないのですね。
それぞれのお別れの中で、また新たな葛藤がありました。
顔をあげられるようになるまでの時間もそれぞれ違いました。
心に届く言葉も違いました。
さて、みなさま
これらはおかしな事でしょうか?
どう思われますか?弱く、情けないことでしょうか?
いいえ、おかしくありません。
最愛のものを失ったとき、溢れ出てくるものにおかしいものは無いのです。
だから、悲しんだらいけないなんて思わなくて大丈夫なのです。
そして同じように悲しめない、涙を流せなくても愛していないことにはならないのです。
悲しみは笑顔で現れることだってあるからです。
その様にグリーフの、そしてペットロスの悲しみを超えていくプロセスは人それぞれです。
感じ方も人それぞれであるように、十人十色なのです。
そして、立ち直っていく過程も人それぞれです。
それぞれに大切で必要なものがあるから違って当然なのです。
そして、それらはすべて、亡くしたいのちへの大きな愛が
違う形に変化したものなのです。悲しみもそうです。
泣けないことだって、カラ元気だってそうです。
一つ言えることは、それらはすべて
あなた様の中にある確かな愛の別の形なのです。
中には、そんな風に悲しんでいると死んだものが悲しむとか
罰が当たるという方がおられますね。私も言われました。
犬が死んだくらいでなんだ、とか、死んで十年もたつのにまだ悲しいのかとか。
こんな時に涙も出ないなんて人じゃないとか。
どうぞ、そんな時は、その方が
自分を心配してくれるから、そう言うんだな
とだけ受け止めて、言われた言葉はあまり気になさらないでください。
それぞれに生まれてくる感情は、周りの人からはおかしく見えても、
グリーフの悲しみを超える過程では決して「異常」と言うことはないのですから。
どんな感情が出てきてもおかしくないものなのです。
自分のいのちと変わらない唯一無二の大切なものを失くしたのですから。
そんな時に生まれてくる感情は計り知れないものです。
そして、それが異常かどうかは周りの人には決められないものなのです。
悲しいのも、淋しいのも、亡くなったいのちへの愛です。
もし、だれか大切な人を亡くしたり、ペットを亡くして悲しんでいる人がいたら
ぜひ、こう言ってあげてくださいますか。
「あなたのそのお気持ちは、亡くした子を愛しているという確かな証ですよ。
あなたの大切な命がこの世に確かに存在したと言う証拠です」と。
ましてや、悲しむことは決して罪などではなく、
涙を流せないことだって罪ではありません。
それで罰が当たったりなんかしませんから大丈夫ですよ、と。
死別の悲しみから立ち直る為のプロセスは、それぞれに必要な時があります。
克服しようと思って克服できるものではないのですね。
そして、その時間を過ごし、いろいろな経験をする中で、
愛する命が自分の中にきらきら生きていて輝くようになったときに、
心はいつの間にか悲しみから自然と立ち直っているものなのでしょう。
ウィンクルムの丘でも、その様なグリーフやペットロスのお心に
少しでも寄り添いたいと願って活動しています。
私たちは皆様に何かしてあげることは出来ないかもしれません。
でも、一緒にお茶をいただいたり、思い出を聞かせて頂いたり
共にご祭壇で御供養したりお祈りしたり、亡き子のために手作りをしたり、
お庭や森の自然を眺めたり、私たちはそんな小さなことを喜んでさせて頂きます。
その様に私たちや施設を使っていただけることはとても嬉しいことです。
どうぞ、御利用された方でも、そうでない方でも、
お気軽にお電話やメールでご訪問のご連絡とスケジュールをお尋ねくださいませ。
ご葬儀のないときは、いつでもご一緒できると思います。
館内のご祭壇もご予約さえあれば自由にお参りして頂けます。
どなた様もいつでもおいで下さればと思います。
ご連絡いただければ、いつでも予約の時間を設けて歓迎いたします。
御火葬やご葬儀ではない、みなさまの気軽なご訪問も心よりお待ちしております。
みなさまと亡き小さな子たちの魂が
今日も皆様の愛で永遠の絆で結ばれていますように。
最後までお読みくださりありがとうございました。
感謝と共に
一般社団法人洪福堂
総合ペット葬祭ウィンクルムの丘